立憲民主党枝野代表の内閣不信任案趣旨説明に喝采!

昨日の枝野立憲民主党代表の内閣不信任案趣旨説明は実によかった。ネット中継にずっと聞き入った。この間、怒り、落胆し、悲しみ、絶望もしかけたことどもの全てが、国民の思い、願いとともに、一つ残らず含まれていた。今の国会の在り様と安倍政権、自民党公明党与党議員の振る舞いに対する批判、総括として、歴史に残る名演説に違いない。
 まずは、森友、加計、公文書改竄、労働立法、カジノ、参院議員定数増の各政治的テーマが、個別にその問題点が分かりやすく整理されて提示されていたことだ。ネットを視聴した国民はこれまでの様々な政権や与党の不祥事を全て正確に思い出し、改めてその問題の重大さと深刻さを再認識できたはずである。
 しかし、この演説の最も優れた点は、それぞれの原因や問題点を一つ一つ丁寧に論じることによって、これらすべての問題に通底する諸悪の根源は、たった一つ或いはたった一人、安倍晋三その人であり、彼の人間性と彼が作り出した政治と政治家の劣化こそがこの間のすべての不祥事と政治の腐敗、堕落の原因であることを明らかにしたことである。おそらく他人に注意されたことすらないのであろうその生育環境、人を人とも思わぬお殿様、何不自由なく育ったおぼっちゃま、血筋ゆえに周りも持ち上げる、反省もせず責任もとらず、自分本位で部下への思いやりなど微塵も感じさせない彼の性格はこうして形作られたのであろう。嘘もそのなかでは許されたのかもしれない。こういう人物が国の中心で政治を動かしているのである。民主主義の危機と言わずに何と言おうか。
 私は小さい頃から、「嘘をついてはいけない。そんなのは人間のクズだ」と教えられて育った。国民みんながそうだったはずだ。その道徳のいろはが国の中枢では通じない、守られない。守られないどころか大手を振ってまかり通っている。与党議員も喝采だ。内閣与党とも嘘つき万歳の感すらある。
 そして、その空気は、政治家にとどまらず官僚のトップ(或いは官僚全体か)にまで及んでいる。人事を掌握し、国民ではなく上司や大臣、内閣総理大臣に気を使う太鼓持ち役人だけが出世できる制度を作り上げたのだから、当然といえば当然の結果であり、真実を話す造反者は一人もでない官僚たちに守られてこそ、今回の己の危機も乗り切ることができたのだから、多くの自民党議員が称賛するように見事と言えなくもない。しかし、このことは、国にとって極めて憂慮すべき問題を孕んでいることを忘れてはならない。官僚の劣化が、この間の一連の不祥事を通じて明らかになったことは幸いと言うべきではあるが、優秀なはずのトップ官僚たちがなりふり構わずここまでやるということは、官僚の質、国家組織の劣化は相当に深刻なレベルにまで達しているものと考えなければならないからである。「全体の奉仕者」への回帰、公務員意識の正常化には、制度の抜本改革を誰かがどこかでやるとしても、かなりの時間を要することを覚悟しなければならないだろう。
 また、組織と構成員の劣化、政治家らの堕落は、それにとどまらず、必然的に国家社会そのものの劣化に通じる。「嘘も平気」「嘘は方便」、責任は人に、自分は逃げる。それで、国民はどうなる?国はどうなる?「美しい国」と言ったのは誰だ? 枝野氏が言うように、それはストレートに社会全体にモラルハザード(「バレなければいい」、倫理観の欠如、道徳的節度の喪失)を引き起こすことになる。国が壊れる!
 民主主義、多数決、立憲主義についての小学生に対する説明のような下りも良かった。今の自民党公明党議員には、民主主義の意味をいろはのいから教えてやることが必要だからだ。御身大切に安倍のごとき人物にゴマをすり、国民の奉仕者たる責務を忘れた与党議員の大半には、ここから教え、自らのよって立つ足場の何たるかを思い出させる必要がある。枝野氏の「一番聞いて欲しい議員からヤジが来る」に議場が一瞬静まった場面は実に痛快だった。言わずもがなの物の理を大上段に構えられた彼らも不愉快で腹も立ったであろうが、大声を張り上げてヤジっていた議員らに、いつかどこかでふと「しかし、あそこで言われたことも・・・」と、忘れかけている政治家を目指した頃の初心、政治の根本理念を思い起こさせる契機になることがあるのかもしれない。それを期待したい。
 恥すら忘れた自民党公明党議員らはこれをせせら笑っていたが、民主主義の何たるか、政治の在り様についての見識、そして政治家としての根本理念を終始持ち続け、公衆の面前ではもちろん、国会の場でも、臆することなく、教科書にあるがままの言葉で、常に、堂々と、胸を張って訴え続けられる人物だけが政治家であり得るし、国民が政治を託するに値する人物と確信する。そういえば、安倍はもちろん自民党議員の口から「民主主義」「国民主権」「多数決とは」などついぞ聞いたことがない。最初は、「えッ そこからか?」とも思ったが、今はまさにそこからやり直さなければならないほどの与党議員ら(一部野党も)の惨状なのである。
 付け加えれば、近時とみに国民に対する批判的論説も目だってきた。国が壊れそうな危機に、なおも安倍政権支持率が高いからだ。安倍政権がのうのうと生き残っていられるのには国民にも責任がある。私は先に、国民対する信頼を失ったら「国民のための政治」を語る資格を失う、と書いた。だから、国民の良識をまだ信じる。自分だけ良ければいいのではない。みんなが幸せになれるように政治がある。政治の在り様は政治家を変えることによってしか変えられない。この国を守るため国民の叡智を結集するときだ。

気を取り直して 国民を信じよう

この間の一連の安倍政権の不祥事と国民の受け止め、反応について、私なりの総括をしてみた。日本の未来へ希望をなくさないために。
 森友、加計問題、政治というより、人間の根っこのところの善し悪しが問われた問題である。嘘はつく、つかせる、ばれれば責任は部下、自分は逃げる。人間としては下の下、それが我が国のトップにいる。
 財務省の文書改竄と改竄文書の国会提出、国会と国民を欺く日本政治史上類例のない悪事、これほどのことが起きても、監督に失敗し失格のはずの最高責任者が「これからはしっかり監督しますので、よろしく」の一言で平気で居座る。今後、政治の世界ではもちろん、社会を揺るがすどれほど重大で深刻な問題が起きようが、責任を取るのは当の本人だけで、その上に立つ者がその立場と待遇に見合うだけの重い責任をとる、いかにも日本的でもある引責辞任の慣行は、ほどなく日本社会から消えるであろう。居直り、居座りの悪しき文化が花開く。
 「権力は必ず腐敗する」と公言した自民党の広告塔も、最近の国会改革案など見ていると、結局は自民党の人気取りに好都合なだけの使い走りだ。当てにはならない。権力や権威に群がる太鼓持ちも嫌というほど見せつけられた。誰かさんに取り入りたい一心で、カメラの前で筋違い見当違いも甚だしい意見、政権の代弁者のような意見を必死になってしゃべり続ける、それを良心の呵責もなくできる人間がこれほど沢山いることにも驚かされた。TBSの「ひるおび」は好きな番組だったが、お友達であることを隠して、公正中立な法律家を装い間違った法律論まで流して安倍を擁護しようとしたレギュラー弁護士の顔を見るのも嫌になり「ひるおび」の視聴を止めた。私はTBSの報道姿勢には一定の評価をしているが、これはどうしたことか? 他のTV番組にも、こうした政治評論家の肩書を使う太鼓持ちがほぼ例外なく配置されているようだが、これが公正中立な報道の在り方というなら、権力監視のマスコミ本来の使命のはき違えだ。もちろん、これも、特に安倍政権になって顕著な報道へのあくどい圧力から逃れんがための苦渋の策であることを承知の上で言うのだが・・・。
 そして、ま近くは、避難指示が出された夜の参加者満面笑顔の飲み会、西日本豪雨被災地の復興にボランティアが駆け付ける最中、災害対策所管国交大臣を委員会室に張り付けてのカジノ法案の審議。災害救助よりギャンブル優先。何を考えているのか!いや、実は何も考えていないのだ。何をやっても平気、国民は見逃してくれると信じているのだろう。与党全体が。公明党創価学会員には評判の悪いカジノ法案は来年の地方選挙からできるだけ遠いところで可決してしまいたい、その一心。今しかない。そのためには、これほどの無理も押し通す政党に成り下がってしまったわけだ。「公明党 毒を食らわば皿までか」の川柳を見つけた。自己保身、それが最優先。自民党内はといえば、政治のあるべき姿、国民生活など二の次で自分の椅子が保証されさえすればそれでいい麻生と二階が早々に支持を決めて安倍の三選は盤石。そして、常に国民との正面からの勝負は避けて、けたぐり、引き落としも平気、勝てばいいだけの選挙上手の安倍の手腕に期待して、それだけで安倍を支持する自民党議員は依然として多い。立憲民主党を中心に野党議員は必死に闘い続けていて敬服に値するが、多勢に無勢では現状も致し方なし。
 さて、そこで、安倍や自民党が、支持は離れていないと踏んで高をくくっている国民、その国民は安倍政権とこれを支える自民党公明党のことを実際のところはどう思っているのだろうか。一時内閣支持率が下がったが、最近は不思議と持ち直している感もある。心配ではある。確かに、「軍備増強」「憲法改正」「靖国参拝」「天皇制復活」「他の列強と同じ普通の国へ」「そのためには子供の教育から、教育改革」「国、公の優先、私権の制限」、右寄りの考え方の人たちの安倍への支持は根強い。日銀に札を刷らせて株を買わせ年金基金まで注ぎ込ませて株価を吊り上げ、異次元緩和で円安を誘導し大きな貿易黒字で経済が良くなったように見せかける(その実態は為替変動でこれまでの利益も一挙に吹き飛び、株価も暴落が待っているのだが)。実際その恩恵に浴している者も多く、そうした人たちが、先々のこと、国民全体にとっての政策の適否などお構いなしに安倍を支持するというのもやむを得ないか。
 しかし、それにしても、上記の堕落腐敗の極にある安倍政権の支持率はあってもせいぜい3割だろう。そうでなければならないし、そうであるはずだ。正直なところ、安倍政権が4割を超える支持率を回復したという最近の記事を目にしたときは、あまりの驚きで、国民に対する信頼を失いかけた。国民もまた、自分のことだけ、みんなのことを考える余裕はなく、これほど酷い政治の現状にも危機感を覚えることはないのか、と。しかし、思い直した。かつて私たちは長い年月をかけた反対運動の末に新潟県巻町の原発を止めた。その時、圧倒的な保守の町、自民党支配の町(自民党議員が8割)にあって、私たちが縁としたのは町民であった。町民の良識を信じて20年間町民に訴え続け、平成6年ついに町民による「原発住民投票運動」を生み出し、その後も長く困難な道のりではあったが、あらゆる妨害をはねのけて、13000対8000という票差の原発反対を勝ち取り、巻原発を阻止することができた。そして今も、原発が争点となる選挙となれば、確実に対抗票が保守票を上回る。
 そんなに時間をかけていては国が滅んでしまうが、信ずべきは国民である。「この国民にしてこの政治」、わが国民はこの程度かと疑念を持った瞬間に、私も政治を語る資格を失ってしまう。政治は、誰のためでもない、安心安全な国民のより良い生活、そのためだけにあるのだから。まっとうな意見、正当な意見を訴え続ければ必ずや国民には通ずる。大方の良識ある国民は安倍政権と与党のこの間の一連の振る舞いを決して許すことはない。審判を下せるその時が来るのを国民は静かに待っているに違いない。国民を最後まで信じよう。
 

新潟県知事選 原発再稼働阻止へ希望をつないだ価値ある選挙戦

 新潟県知事選は野党統一候補の池田千賀子氏が4万票あまりの票差で敗れた。新潟では柏崎原発再稼働問題を抱えていることに加えて、安倍政権の腐敗堕落という国政レベルの大問題もあることから、私は、この選挙で県民は間違いなく正しい判断を下す、この選挙は勝てるはずと先にブログにも投稿していた。残念な結果である。
 しかし、今日の朝刊にこんな記事を見つけた。自公をバックに当選した花角は、選挙期間中「原発再稼働問題では、検証結果を見て、自分で判断をし、その上で出直し知事選等でその判断について県民に信を問う」と訴えていて、当選後の記者会見でも「その意思は変わらない」と述べたというのである。私はこのことを知らなかった。
 それを知らずにいた私は、前回原発再稼働反対を表明した米山候補(前知事)に投票した人の3割、そして投票者の6割を占めたという原発再稼働反対の人の3割が花角に投票した(花角の得票数55万票のうちの18万票になる)という出口調査の結果を知って愕然とし、その人たちは一体何を考えているのか、民主主義、国民主権の大切さが分からないのか、原発再稼働反対もその程度の認識でしかなかったのかと、選挙結果確定の直後には絶望感すら覚えていた。
 しかし、花角が原発再稼働に関し前記の言葉にまで踏み込んだ演説、選挙運動をしていたのであれば、この選挙結果はそう単純な話にはならない。もともとの自公支持者には耳障りの良い言葉であったに違いなく、花角のもとでも原発再稼働は止められるのではないかと考える者が出てきたとしても無理からぬものがある。少なくとも原発再稼働に関しての県民意識が大きく後退したと考えることはなさそうだ。
 花角の選挙演説が、安倍政権で今はやりの「嘘」「ごまかし」、選挙の「争点隠し」なのか、それとも、これから政治に携わろうとする者の何がしかの政治信条に基づくものなのかは、早晩明らかになることではあるが、少なくとも、原発再稼働反対の強い県民意識が、そう言わざるを得ないところに花角を追い込んだことは間違いないし、それを花角は受け入れたのであり、その結果花角に流れた県民票は今後彼の行動に重くのしかかることもまた間違いのないところである。県民に直接語り掛けた言葉をそう簡単に反故にすることはできまい。彼には大きな足枷になった。これがまた、我々のこれからの原発再稼働反対運動の大きな拠り所ともなる。
 こうしてみると、もちろん勝つに越したことはなかったが、この負け選挙もそう捨てたものではないとも思えてくる。それどころか、花角に前記約束をさせたこの知事選こそが、柏崎原発再稼働の行方を左右した最も重要な闘いであったと後々称賛されることもあり得るのではないか、とも。
 その意味で、池田氏の勇気ある決起には心から感謝しなければならないし、立憲民主党を中心にした野党各党、市民集団の頑張りにも心からの感謝と敬意を表さなければならない。我々は、原発再稼働阻止の闘いを明日につないだこの尊い選挙戦を無駄にしてはならない。
 齢70年、引退を決め込み今回の選挙ではこれといった行動はとらなかった。この反省と悔しさをバネに、これからは花角知事の言動を注視し、一朝ことあらば、その時こそは最後のご奉公をとの思いを強くしている。

加計問題に新たな切り口 「面会は作り話」でいいことにしよう

 加計問題で新たな切り口が見えてきたのではないか。鍵は、権力保持者の中では唯一人まっとうな意見を述べ続けている中村愛媛県知事の今後の行動、そして県から交付される学園への補助金である

 先日、学園側から出された「理事長と安倍首相の面会は作り話だった」のFAXコメントは、その意図とは裏腹に、かえって安倍首相の首を絞めることになるかもしれない。
 これまでに認められた客観的証拠からでも加計問題の真相は相当程度見えていたが、その全体像を白日のもとにさらすとどめの一撃、パズルの最終ピースともいえるほどの証拠、その信頼性もきわめて高い愛媛県文書が登場した。これで国民のモヤモヤもすっかり晴れた。やはりそうだったか、と。一方、安倍、加計の方は、この記述を否定する理屈を何としても考え出さなければならない瀬戸際に追い込まれる。役人が聞いてもいないことを勝手に書いた?そんなことをしなければならない理由はどう考えても出てこない。彼らも必死だ。しかし、いい知恵も浮かばない、これでいくしかないの窮余の一策がこの「担当者のつくり話」だったのだろうが、一日も早い表明に慌て過ぎたのか、騙した相手、県や市への挨拶も忘れてしまった。
 一聴してあまりの無理筋である。そもそもこれまで国民に対しても一切の説明を拒絶してきた加計学園が初めて口にすること、嘘に決まっていると、国民の大半が思っている。そう思われていることにすら気づいていない者の一人が安倍首相であろう。コメントすら避けるその答弁を聞くと、もはや思考は停止し、ほとんど何も見えていないようだ。自分に向けられる国民や回りの人たちの視線がよほど険しいのであろう。このところの異常なほどの海外出張はそれで理解できる。

 しかし、いいではないか。折角の申し出でなのだから、「面会は作り話だった」を本当のこととして扱ってやればよい。その結果はどうなるか。そこで明らかになるのは、一つは、加計学園が安倍首相への遠慮どころか、獣医学部新設のためには総理の名前を利用してなりふり構わぬ推進活動していたというその姿であり、もう一つは、加計学園は、安倍首相と理事長の面会話をでっち上げることまでして平気で県や市を騙しにかかるような事業体だということである。それを自ら堂々と宣言したのだ。これを使わせてもらえばいい。

 愛媛県中村知事がそんな「作り話」で動くような人物でないことは、この間の発言や真摯な振る舞いからよく分かるが、県の担当者、或いは今治市長などは、安倍首相、国が乗り気の事業であるとなれば、そうした話に乗せられて、様々な行動、学園への協力行為をしてきたことになるのではないか。

 平気で行政を騙しにかかる事業体、中村知事が述べたように、こんな事業体のすること、言うこと、信用していいのか? 当然の疑問である。これほどまでの嘘が平気なら、他にも、質量ともにどれほどの嘘をついてきたやも知れぬということになる。知事が学園側と県とのこれまでの経緯を逐一調査するというのはごく自然な成り行きである。

 そこで問題は補助金である。この事業への補助金は、これも国家戦略特区の対象事業という農家レストラン等への補助金とは桁がいくつも違う。今治市90億円、愛媛県も30億円、国民の血税である。他方、こうした補助事業では、もらう補助金の額を増やすため、施設建設費などの所要経費が水増しされることは、そうした事業者間では常識に属することと聞く(犯罪行為ではあるが)。加計学園のように嘘が平気な事業者の申請となればなおさらのこと、慎重の上にも慎重な調査が必要とされるであろう。計画の相当性、工事費見積もりの正確性、実際の工事に要した費用、二重契約書はないか・・・。調査次第では、加計学園が苦しい立場に追い込まれることもあり得る。

 学園側はどう対応するか。「作り話を県にした」を頑張り続けながら、県の不信を払拭することは容易でなかろう。己の利益のために県を騙そうとしただけ、そのことを正当化する理由などないからだ。謝って済むことではない。他にも何をしていたか分からない。徹底的な調査の対象とされ、追求されることになるだろう。さりとて、面会は事実で「つくり話」と言ったのが実は嘘と自白すれば、安倍首相の答弁が嘘ということになってしまう。進むも地獄、引くも地獄だ。
 正義の人、中村愛媛県知事の果断な行動に期待するしかないことではあるが、この人なら国民の思いに答えてくれるのではないか、そんな期待を抱いている。

慣れてはいけない 許してはいけない 嘘と隠蔽

 今朝のTV番組で、あるコメンテーターが「どんな展開にも驚かなくなっている自分にハッとした」という趣旨の発言をした。本当にそうだ。政治のトップや官僚たちによって1年以上にわたって繰り広げられる「嘘と隠蔽てんこ盛りショー」を見せつけられ続けていると、政治だからそんなものか、政治の世界ではこれが当たり前か、国民があがいてどうこうなることではないと、こちらの感覚が麻痺させられてしまいそうである。
「正直でありなさい」「嘘をついてはいけない」、子どもの頃に嫌と言うほど親や先生たちに教えられたことだ。それを破るようなのは「人間のクズ」だ、と。我が国は、人間のクズどもが国の舵取りをし国民を支配する国なのか。そして、それを正すことのできない国なのか。確かに、最近は怒りを通り越して、情けなさ、無力感が先に立つようだ。
 今日も嫌なニュースを耳にした。愛媛県知事も怒りを露わにしているが、愛媛県の文書に登場する加計理事長と安倍首相との面会は「作り話」だったと、加計学園の担当者が述べたというのだ。中村知事の言う通り、「一つの嘘は多くの人を巻き込んでしまう」。それがまた動かしがたい真実の重みの故でもあるのだが、嘘はとどまるところを見つけられずに、どこまでも広がっていく。それを地で行く展開だ。
 いい加減にしろ!その弁明が本当なら、安倍首相の首が飛ぶ重大事、即座に主張されていなければおかしい。県の職員が安倍首相を陥れるために虚偽の事実を書いた? 誰がどう考えても無理だ。そこで関係者で鳩首協議、すり合わせた結果、これでいけるか。「作り話をしてしまいました」? 今頃言うこと自体が嘘であることの証明だ。誰が信じるか!それが、ある事実とその事実が述べられる時期との関係の常識的な推理、推論(裁判での「経験則」)というものだ。同じ嘘でももっとうまい嘘を考えろ!
 安倍首相は、加計理事長とは友人であるだけにことさら気を付けていて、「彼と獣医学部のことは一切話していない」と国会で答弁している。それなのに、加計の担当者の方は「加計理事長が安倍首相に話をして、安倍首相も「いいね」と言ってくれた」というつくり話まででっち上げ、しかもそれを、広範に知られてしまうことも気にせずに、市や県の担当者に理事長と安倍首相との親密な関係をアピールしていたという嘘なのだから、その内容にも驚きだ。この言い訳には安倍首相もビックリしていることだろう。
 もう一つの驚きは次のことだ。安倍首相は加計理事長のことを「私に迷惑をかけないよう、加計理事長が私に頼み事をすることは決してない」とも述べている。安倍首相の答弁が正しいなら、加計理事長は、この件では、直接の働きかけを慎むことはもちろん、職員に対しても、安倍首相との友人関係の言及にはよくよく注意するよう指示していなければおかしいことになるが、今回の加計学園側からの弁明は、そんなことではなかったばかりか、学園側は、むしろその正反対に、理事長と安倍首相との面会の作り話をでっち上げ市や県を騙してでも計画を前に進めたい、何でもありの推進活動をしていたことになる、そして、そのことを学園側が自ら認めることになっていることである。関係を伏せるどころか積極活用である。あくまで「作り話」というのが本当の話ならである。無理というものだ。この話は嘘としても出来が悪すぎる。面会は真実であり、担当者はそれを嬉々として伝えていたのに違いない。
 文書の記載内容を否定するために考え出した嘘なのであろうが、それは手段を択ばぬ推進活動を推認させこそすれ、学園から安倍首相への働きかけなど一切していないという学園側の言い分にとっても明らかにマイナスの主張となる。そのことに理事長は気づいているのだろうか。あまりの嘘の積み重ねで当の本人たちが収拾がつかなくなっているとしか思えない。安倍首相との度重なるゴルフ、会食の席で獣医学部のことを口にしていない? 安倍首相に会いに出かけたことはない? もともと誰も信じていないが、語るに落ちるとはこのことだ。
 一つの嘘は次の嘘を必要とし、上司の嘘は部下に嘘を求める。嘘も質がどんどん悪くなっていく。私の場合、法廷で証人や本人の供述の嘘を暴くことが仕事の半分のようなものだったが、嘘をつき通すということは、ことほど左様に難しいものなのである。
 それでも、安倍首相は「私は加計理事長と会ってはおりません」、加計理事長は「そんな作り話をするとはけしからん!職員への監督指示が行き届かなかった」で逃げるのだろう。そして、これが通用してしまうのが今の安倍一強国会である。自民党の中にも、この事態を前にして国の未来を憂いている議員がわずかにはいるようだが、ほとんどが日本がどうなろうが構わない太鼓持ちばかりだ。
 でも、諦めてはいけないのです。良識ある野党議員は頑張っているし、いつかこの腐りきった政治を正せるチャンスが来ます。慣らされてしまうことなく、今の怒りを忘れずに、その機会を待ちましょう。日大アメフト部の宮川君の覚悟と誠実な説明、心からの謝罪に、日本中が正義の姿、真実の大切さ、人間の誠実さ、人の尊厳を目の前に見て感動しました。ここに人間あり。これこそ人間。私たちにこの感性がある限り、日本はまだ大丈夫です。みんなで本当に「美しい」日本を取り戻しましょう。

新潟県知事選 思い起こそう 福島原発事故で起きた奇跡 水素爆発

新潟県知事選では柏崎原発再稼働の是非が争点となる。推進派候補も前知事の検証路線は引き継ぐと言っていて、当選で直ちに再稼働はないだろうが、もし当選となれば、検証作業は急がされ、どんな報告がなされたところでこの人のもとでは再稼働必至である。この選挙がその分水嶺となる。県民の多くは再稼働など望んでいないと思うが、県民の気持ちに行政一般での国との連携などわずかでも隙が生まれれば怖い面もある。ここで、福島の原発事故がいかに重大なものであったかを改めて振り返っておくことの意味はあるだろう。新規制基準など原発の安全は保たれるのではないか、そんな幻想は打ち捨ててもらわなければならないからである。
 回復不能ともいうべきあれほどの被害がもたらされた福島原発事故であるが、実際のところは、信じられないような幸運、奇跡に助けられて、あの程度の被害にとどまったというのが事の真相である。このことが意外と認識されていない。思い出してもらいたい。爆発で原子炉建屋の屋上が吹き飛び、ヘリコプターが海から水を汲んでは開いた屋上の穴から海水投下を繰り返し、消防車が長い導水管を立てて屋上の穴から注水を続けたTV映像を。何をしていたか。最上階に作られていた使用済み燃料プールに注水し燃料を冷やし続けていたのである。その時は、全ての電源が失われていてポンプも停止、水をプールのある4階にまで上げることができなくなり(この使用済み燃料プールの位置の危うさにもこの事故まで誰も気づいていなかった)、プールの水は燃料温度の上昇で気化しどんどん少なくなっていた。水がなくなれば燃料棒が露出し、まず燃料収納機器(普通の金属)が溶け、2600℃になれば燃料そのものも溶けだして大量の放射能が環境にばらまかれることになる。そこには未曾有の大惨事が待っていた。当時の菅首相が「関東一円が危ない」と考えたのは根拠のあることである。風向きによってはそうなる(放射線ガンマ線でも空気中数百メートルでエネルギーを失い消失するから放射性物質が近くに来なければ大丈夫)。
 使用済み燃料がどうして発熱するのか。熱の正体は物質の振動である。ウラン235の核分裂で生まれた放射性物質は、自然崩壊(原子が割れること)を繰り返して放射線を出し続ける(その量が半分になる時間を半減期という。福島で大量に放出されたセシウム137の半減期は30年。30年経っても放出放射線量は半分になるだけ)。この出続ける放射線が燃料組成物質に衝突して振動させ熱となるのである。そして、使用済み燃料の熱量は圧力容器内で使われていた燃料よりも大きい。それは、使用中の燃料にはウラン235が核分裂した分だけの放射性物質しかないが(圧力容器内の水が失われるとウラン235の分裂は止む。水[の中の水素原子]が核分裂に必要だから)、使用済み燃料では燃焼(核分裂)でウラン235のほとんどが放射性物質に変わってしまっているからである。
 建屋内部は放射線量が高く建屋内からプールに近づいて注水することは不可能だ。建屋の壁も天井も厚さ1mもの鉄筋コンクリート造りである。ダイナマイトでも使ってうまく注水用の穴を開けられるのかどうか、それに類する一か八かのようなことがあの場面で許されたかどうか。その使用済み燃料溶融の危機を救ってくれたのが、あの巨大な水素爆発である。それも丁度、屋上を吹き飛ばし、格納容器は壊さないような絶妙な規模で。また、爆発規模が、使用済み燃料プールの底部にダメージを与えるものであったなら、プールの底が抜けていた。穴あきプールではもはや冷やしようがない。地獄が待っていた。
 加えて、この水素爆発自体がもともと安全審査では起こるはずがない(想定不適当)とされていた事象である。燃料被覆管の金属と水の反応で水素が生じるのだが、この水素対策として水素酸素再結合機(水に戻す)が格納容器に設けられていたし、格納容器から原子炉建屋に水素が漏れることはないことにもなっていた。これら安全装置が何も機能しなかった、それ故に水素が大量に発生し建屋に漏れ出して大爆発が起きた、それが国民を救ってくれた、ということになるのである。不思議な気分にもなるが、私たちに大事なことは、この幸運に感謝しつつ、上辺の結果だけから事故の真相を見誤ってはならないということである。福島の事故は原発の再稼働など誰も口にできないような深刻な事故だったことを決して忘れてはならない。
 ともあれ、愚かな人間を天は一度助けてくれた。二度はないであろうこれほどの幸運を私たちは無駄にしてはいけない。大事故は思いもよらぬところから起き思いもよらぬ経路で拡大する。危急の場にある運転員の判断ミス、操作ミスも避けがたい。また必ずどこかで大きな事故が起きる。1年の4分の1は雪に覆われ、車が一台スリップして道路を塞いだだけで道路が使えなくなるこの地で、避難訓練をして柏崎原発を再稼働する? ありえないことだ。人の命と健康の大切さというものを、いの一番に考える政治であってほしいものである。私たちがそういう政治家をつくり、ダメな政治家は私たちの力でこれを排除しなければならない。

負けられない 新潟県知事選

新潟県知事選が迫っています。致し方なしとはいえ、残念な突然の米山前知事の失脚。私は、原発に関して豊かな見識のもと自ら綿密な検討を加えて確かな結論にたどり着けた彼のような保守系政治家をかつて知りませんでした。今では「官僚に騙された」と公言してはばからず、再稼働反対運動に身をささげる 小泉純一郎氏がいますが、現役にはなかなか見当たりません。まず真剣に考えようとしない。或いは考えてもよく分からないから推進側の説明に盲従する。福島の事故など二度と起こらないと思っているし、あれくらいの事故が数十年に1回程度なら経済振興の方が大事(原子力産業、海外輸出)という程度の頭の連中です。そうでなければ再稼働容認などあり得ないから。あるはずのない水素大爆発が原子炉建屋の屋根を吹き飛ばしてくれた幸運が周辺住民の多くの命を救ってくれたこと、この奇跡を無駄にしてはならない、そのことが分かっていないのです(このことは後で別稿に書くことにしましょう)。
 米山知事のもと彼が知事職にある限り、柏崎原発の再稼働はない、東電もそのうちに息切れするだろうと期待していました。何ということでしょう。政治の世界「一寸先は闇」は不埒な権力者に向けられた言葉かと思っていたのですが、政治家として良き資質の持ち主にも襲い掛かるもののようです。
 しかし、気落ちしてばかりもいられません。原発再稼働反対派候補の擁立を封じる意図だったのか、当初、新潟市長を中心に市民グループの仮面をかぶり、米山知事路線を継承すらから心配ないと、本心は再稼働容認の官僚出身候補を推す動きがありました。反対候補が出てくれたおかげで、化けの皮がはがれそのグループの影も薄くなりましたが、実に汚いやりかたで腹がたったものでした。検証を引き継ぐといっても、検証委員会が断定的な結論を出すはずはなく、最後は知事の判断となります。国会での役人たちの哀れな姿を見ていて明らかなように、このような経歴の人が国の方針に逆らえるわけがありません。「私自身の判断で、国の指示に従ったのではありません!」。嘘をつけ!そんなことは既に全国民周知の事実となっています。
 唯一のこの選挙の気がかりは、再稼働反対派の候補がハッキリと革新系の候補だということです。原発についての問題意識は強く、国政レベルの選挙でも新潟県民の政治意識は全国に誇っていいほどに高いのですが、地方議会や首長レベルの選挙となると、その傾向にブレーキがかかってしまう、それもまたこれまで随分と経験してきたことだからです。ハッキリ革新系の人を知事にすることに躊躇したりすることがないのかどうか。
 しかし、もしあるなら、今回はそんな考えは捨ててもらわなければなりません。 ここで問われるのは、柏崎原発の再稼働を本当に認めていいのかどうか、新潟県民のその思いの強さだと私は考えています。負ければ柏崎原発再稼働への道が間違いなく開かれてしまうのですから。それに対する県民の答えとなる選挙なのです。
 県民投票の約束もいいではありませんか。判断は最終的に県民に委ねるというのです。検証結果が両論併記でもこの人は原発再稼働を認めないでしょうが、さらにその判断の是非を県民に問う、県民の意思に合致しているかどうかも確かめる、というのです。これ以上に民主的な方法はありません。また、知事が再稼働反対なのですから、自民党住民投票条例の制定に反対することはありません。推進側が住民投票で知事の判断を覆すしかなくなるからです。県民投票は実現し、柏崎原発再稼働反対は知事のみならず県民の意思としても確定されることになります。遠からず東電も永久にギブアップです。他方、相手が県民投票の実施を約束することはありません。県民に再稼働に反対されたら大変だからです。そこで、口先だけ県民を騙せばいいだけの検証路線継承公約の化けの皮がキレイに剥がれることになります。