体操協会のパワハラ、行きつく先は安倍晋三

   先日の朝日川柳に「正直と公正さがニュースとは」とあった。これにまったく同感の者として無断引用させていただく。実に嘆かわしい世相である。政治家、政治組織に限らず、社会のあらゆる分野の名だたる組織で腐敗しきったその実像が次々と国民の前に明らかになっている。レスリング、日大、ボクシング、今度は体操協会だ。ここでは「パワハラ」の有無がことさら強調されているが、問題はそこではあるまい。その温床とも言うべき組織体制の在り方がこの問題の全てだ。一私的体操クラブに関わる者が協会の枢要部にいてナショナルチームを率い日本代表の選考にもかかわる地位にいる。好成績の選手の輩出は同クラブの経営上の利害にも直接かかわる。この利害の錯綜だけで、協会側はアウトである。こんな体制を良しとしてきた体操協会とは一体どのような組織体なのか。今回の対応を見ても、パワハラ調査の第三者委員会を立ち上げるとは言うものの、肝心の体制は現状維持だという。的外れもいいところ、世間常識から乖離した人々の集まりのようだ。
 後から検証して実質的な不正や不公平な扱いがなかったならそれでいいという問題ではない。公正、公平が守られるべきことは当然として、その前に、まず、そのことを保証、担保するための制度、体制、手続きがきちんと整備されていなければいけない。そうした体制のもとでの判断、選択、行動であって初めて、「公正・公平」なのだろうとの社会的納得の暫定資格が与えられるのである。今回の騒動、関係者の判断、行動の是非を問う前に、協会側にはそもそもその前提資格がない。不公正や不正が起きて当たり前のようなその組織体制を改めることが何より先にやるべき仕事だろう。「第三者機関」を必要とすることの意味が分かっているのかどうかすら疑わしい。それも副会長が築きあげてきた強大な権力の故なのか?
 「公平・公正」は人間社会において極めて重要な価値基準の一つである。さればこそ、社会のあらゆる分野で、「公平・公正」を担保するための制度がつくられ、法律、規則その他の社会規範が設けられている。たとえば民事訴訟法における裁判官の忌避、除斥制度。裁判官は当事者のいずれかとかつて一定の範囲の姻族関係にあったというだけで、裁判の担当からはずされる。弁護士も、相手方からの協議を受けていてそれが一定の信頼関係にあったと認められる場合には、相談者からの事件を受けてはならない。その人物なら間違いなく適正公平な事務処理が行われるとしても、だ。国家公務員倫理規程にも、次の定めがある。「国家公務員は・・一部の奉仕者ではないことを自覚し、・・国民の一部に対してのみ有利な取り扱いをする等、国民に対し差別的な扱いをしてはならず、常に公正な執行に当たらなければならない」。そして、公務員にとっての利害関係者を「(許認可業務に携わる公務員には)許認可の申請をしている事業者」等と定義し、倫理上の禁止項目として「職員は、利害関係者とともに遊戯またはゴルフをしてはならない」などと具体的な行為まで記載している。これらは、全て、公正公平な事務処理の確保、社会的不正義と不公正を排除するために設けられた制度的な担保措置である。体操協会の今の指導体制(利害関係者の枢要部での関わり)も、「公正・公平」の観点からは、制度的欠陥と言ってもいいものだ。
 ここまでお読みいただいて、そうはなっていないではないかと気づかれた方もおられるはず。あの「男たちの悪だくみ」の乾杯写真、安倍晋三と加計理事長の楽しそうなゴルフプレー、あれは何なのだ、と。然り、ご存知なかった方はここで覚えていただきたい。国家公務員倫理規程が適用されるのは、「一般職」公務員だけで、総理大臣、国務大臣などの「特別職」国家公務員は適用除外とされているのだ。利害関係者との頻繁な会食、ゴルフもお構いなし。だから「何が悪い?」と居直れる。理由はグダグダ述べられているが、憲法上「国民全体の奉仕者」と規定され、強大な政治力を持ち、国民に対する正直で公平公正な政治の執行には一般職公務員よりもはるかに重い責任を負っているはずの「特別職」に対し、なぜ規律が逆に弱められるのか、私には理解ができない。
  もちろん、こうした規則は、権力者たちが自分の都合のいいように作るものだが、心ある政治家なら、この規律が自分にそのまま当てはまるくらいのことは分かってよさそうなものだ。その「公正・公平」らしささえ装う必要がないと、国民を馬鹿にしきっているのが、安倍晋三であり安倍政権ということになる。
 ことほど左様に、制度体制規則を整えればそれで「公正・公平」が保証されるということではないけれど、そこに腐心しているかどうかを見ることは、「正義・公正」という人間的社会的価値に向き合う姿勢、その人物、社会組織の善し悪しを判断する一つの尺度には十分なり得る。